インフラの世界に浸って、

NECがPC9801が出てそれを某金融機関の若手ITスタッフとして全店展開からはじまり、LANや商用インターネットの原点からどっぷりとインフラに浸かって30年。その間1993年~2004年初頭までNYでPC、VAX、UNIXそしてLANやWANをローカルスタッフの親方として従事。そして今、現役としてモバイルやデータセキュリティのプロダクトセールスをする異端児オヤジのインフラ話

オフィスの今と昔(1980年代と今を比較してみる)

自分は、1982年の春から社会人生活が始まった。
所属は、金融機関の電子計算室で汎用機のオペレーションが仕事だった。当時は、週休二日制でなく土曜日も仕事だった。
今では、ITの運用部門なんて言われる部署も当時は電子計算室なんて名称です。
そんなオフィスの各自の机の上は、鉛筆立てと電話が置かれているだけの極めてシンプルなものでした。
ワープロ!?(←今や死語か)なんてものもありません。そう全てが手書きです。線を引くには、定規を使う。漢字を調べるための漢和辞書、言葉を調べるために国語辞書、英語を調べるために英和辞書が机の上に置かれていた。
コンピュータと分類される機器は、建物の中にあるコンピュータルームのみです。PCなんてものも自分が入社して数年後に導入された。
あっ、そうだ現金払出機(キャシュディスペンサー)だけがオフィスエリアに置かれていた。もちろん、他の金融機関とは繋がっていない自社のみのものです。


今の若手には信じられないオフィス環境で仕事を普通にしていたのが30年前なんですね。上司のメモを清書したり、自分の書いたものはまさに紙の上に赤ペンで添削される。漢字が解らなければ辞書で調べて書くという感じで仕事していました。学生時代も同じだから違和感は有りませんが、今から思えば良く一日で仕事できていたなぁっと思う。
今は、絵を交えたプレゼン資料をいとも簡単に作れますが、当時は言葉が全て、数字が全ての時代でした。その当時に資料に挿絵を入れるなんてなかった。やる奴も居なかった。
コンピュータにプログラムやデータを入力するためには、パンチカードが使われていました。そのカードこそが命なんです。STARTのカードに始まり、ENDのカードに終わるもので、数枚のものから何百枚のものまであった。
コーディングシートにパンチする内容を記載して、パンチ室に依頼をする。


コンピュータを使っている部署には、居たものの今と比べると大きく差のある世界があったんです。
そしてタバコですが、当時は禁煙なんてなかった。喫煙者の机の上には灰皿も大事なアイティムでした。コンビニが無い当時にオフィスでは、給茶機があり、水かお茶が基本だった。コーヒーが飲みたければ食堂の喫茶コーナーに行く。
入社当時は、コンピュータは朝立ち上げて、一日の業務が終わると落として帰るが基本だった。パソコンでなく基幹システムが稼働する大型の汎用機ですよ!
通常日でオンライン後のバッチ(事後)処理が終わるのが20時で月次処理を足しても22時前に終わっていました。
仕事が早く終わる=ほぼ毎日が飲み会だった気もする!?
こんな環境で仕事が始まりましたが、年々処理の終わるのが遅くなり・・・気が付くとオンラインが24時間動いている世界を迎えるようになったんです。
なんて話を書き出すとこの文章はいつに終わるのか?ってことになるのでまずは、ここらでお開きに


次回をお楽しみに!、大事だと思うのは今が昔からあるのでなく、時間と共に様々な変化があってそして今があるってことです。自分も始まりに居たわけでなく、金融には金融のルーツがある。社会には社会のルーツがある。自分が思うに、今の社会のルーツは戦後からだと思っている。そう考えるとまだ100年経っていないんですよね。


1980年代            現在
紙とペン     ⇒     ワープロソフト
辞書       ⇒     インターネット
連絡文書     ⇒     電子掲示板
マニュアル(紙)   ⇒     電子マニュアル
週5日勤務     ⇒     週休二日制
全面喫煙     ⇒     オフィス内禁煙

企業内LANの始まり

金融機関でLANを使い始めたのは、自分の経験から思い起こすと1980年後半からだと思われる。
その当時のLANは、大きくは二つに分類される。一つがIBMが推奨したトークンリング方式でもう一つは、Ethernet方式です。現在では、トークン方式はほぼ消え去ったと思われます。トークンを推奨して拡張版の16MbpsのトークンリングまでリリースしたIBMは、今ではEnternetでCISCOを使ってる。
IBMがトークンリングとした結果、当然ですが日立や富士通もトークンリングでした。その理由はもちろんアレですからね。
トークンリングは、メインフレーム系のワークステーションやミニコンで使われていました。
Enternetは、PC系で利用していましたが当時は、OSがMS-DOSでメモリー空間が640KBでここにLANのドライバーを常駐させるとかなりアプリに影響を与えていた。結果は、Lotua1-2-3のマクロが動かないなど色々な問題にぶつかっていました。そんなこともあり、金融でもPCでLANを使ってなんて話になるのにはかなりの時間が掛かりました。
自分の勤めていた会社でも、1990代後半に”BPR”というキーワードで一斉導入したことが、今のオフィス環境の始まりだと思います。
ただ、これは日本の話であって、自分がNYに赴任した1993年には、米州では一人一台のPCは当たり前で、既にPCサーバだけでなく、VAX(旧DEC社のコンピュータ)にソフトを入れてPCサーバとして利用してました。そして、DEC社のワークステーションを使って市場系のシステムもリリースされてました。
同じ時期の日本の市場系システムは、メインフレームかオフコンが主力でした。もちろんメインフレーム系でのLANはほんの一部だけです。なぜってトークンリングだからです。しかも、I社とH社のトークンリングは相乗りが出来ない。
当時、なぜPC-LANが必要だったのかというと、一人に一台のPCを配ったとしても、メールなどのグループウェアがあるわけでないので、結果は、プリンターで印刷をすることになります。がしかし、事務机にPCの本体とブラウン管ディスプレイにキーボードを置くだけで机はいっぱい。プリンターなんて乗るスぺースはありません。更に当時は、B4用紙が主流となるとどうしょうもないんです。
Windowsでなく、DOSなので同時に複数のプログラムを動かすことも出来ない。
金融では、まだまだそろばんを使う時代です。それにプラス電卓が基本。稟議書は、基本はボールペン書です。机の上には、漢和辞書、英和辞書、和英辞書が並ぶのが当たり前っていう世の中だったんです。(たったの今から30年前です)
話が若干横道にそれましたが、なぜにその時代にPCが必要でLANが必要だったかというと、表計算ソフトウェアによる効率化です。簡単なグラフまで作れます。
表計算ソフトウェアで作れないものは、数字に強い方々がプログラミングする。
そして、スペースの観点からプリンターの共用が必要不可欠だったんです。
アナログな切り替えスイッチもありますが、最大でも3台で共有するのが限界です。
LANなら、それ以上のPCから共用できます。更にサーバのハードディスクにデータ保管も可能です。


といことで、大手町の一等地にOA機器が並ぶオフィスは高価すぎるということでLANを導入する企画書を作ったのです。
ちなみにですが、LANがないとおそらく、課長クラスの机で統一する必要が出てきます。
課長と同じサイズの机でオフィスを埋め尽すことを想像して下さい。


ディーリングルームに始まり、その後十年の間に全支店までLANとWANが導入されました。最初は、10BASE5という同軸ケーブルから始まり、その後10BASE Tという今、皆さんが家庭でも使っているものに変わっていたのです。


自分が勤めた会社は、金融ではPC-LANの導入は一番手で二番手はその後数年後に導入が始まりました。そしてその後も新しい事は、うちから始まるという流れでインフラを担当して来ました。

自己紹介

1982年に社会人となり、汎用機の運用からシステム生成やプロダクト導入を今でいうIT運用部門で経験。当時、最低でも5年は移動がないところを4年半という最短で卒業(追い出され)。しかも移動したタイミングは、コンピュータ系の専門職に職制制度が導入され、専門職になった直後に支店勤務を命ぜられる。ある意味、異端児の素質が目覚めたというべきか!?
そして、支店では2年で銀行業務を学び、ITでも運用部門でなく企画部門に配属となる。
当時、専門職で自分と同じ世代が企画部門には一人もいなかった。
そして配属になったのが、OA班(今でいうシステム基盤のPC担当チーム)。NECがPC9801シリーズを世に放って数年。そこでPCを中心とした企画業務の筆頭係員としてあらゆることをやる結果となる。なぜなら、当時の情シス子会社は、PCはシステムとして見ていなかったから。汎用機で基幹のオンラインシステムこそがシステムと崇拝していた。
そんな中、アナログ率200%のディーリングルームの大改装のプロジェクトが発足し、一人一台のPCの配置とLANの導入というのが自分のミッションとして与えられ、Windowsもない時代に市場部門に16BitのPCを100台単位で導入。更にそのPCで動くアプリ開発までも担当。当時の体制は、情シス子会社要員無し、自分と上司そして残りはベンダーで悪戦苦闘の日々を過ごす。
そして1993年秋にNYへ赴任し、全米のインフラを統括するチームのリーダとなり、言葉も含めて苦労の日々を過ごし、気が付けば金融統合もありで10年が経つ。
その間、LANだけでなく、データセンター構築、バックアップセンター構築、全米の拠点間のLAN接続、体制面では、Helpデスクの構築を行い、最後は金融統合で〆て2004年正月に帰国。
その後は、約10年、IPネットワークの企画と管理を担当しつつ海外ITとの連携や、BlackBerryなどの新技術の日本での導入を担当し、2014年冬に金融IT人生に終止符を打つ。今は、縁あってBlackberryの後継としてでたGoodのプロダクトエバンジェリストととなったが、気が付けばBlackberryのGood買収により、結果Backberryのセキュリティプロダクトエバンジェリストとなり、日々悪戦苦闘している。
インターネットや携帯、CISCOもない時代から現場でユーザとしてあらゆる視点で日々学んできた。この経歴は、人に言わせれば金融のIT部門の異端児という。
ブログは、昔話ありそして現在の先端の一つであるモバイル関連に関して、現場経験をベースに紹介して行ければと思う。